宗像大社(沖津宮・中津宮・辺津宮)の「歴史・由来」と、ご祭神・宗像三女神の「名前の由来・ご神徳(ご利益)」など

スポンサードリンク

宗像大社(沖津宮・中津宮・辺津宮)の「歴史・由来」と、ご祭神・宗像三女神の「名前の由来・ご神徳(ご利益)」など

こちらのページでは、宗像大社の歴史や、ご祭神「宗像三女神」の誕生・降臨、祀られるようになった経緯やご神徳についてご紹介します。

これから宗像大社を訪れる予定の方は、参拝の予習にお役立てください!

宗像大社の基本情報(創建年・ご祭神など)

読み方

むなかたたいしゃ

  • 沖津宮(おきつみや・おきつぐう)
  • 中津宮(なかつみや・なかつぐう)
  • 辺津宮(へつみや・へつぐう)

 

三宮それぞれの位置やアクセスについては、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
実は3か所あった!宗像大社「辺津宮・中津宮・沖津宮」の場所・アクセス(行き方)と「3つのお宮がある理由」

創建年

不詳(神話の時代)

ご祭神

宗像三女神

  • 沖津宮:田心姫神(たごりひめのかみ)
  • 中津宮:湍津姫神(たぎつひめのかみ)
  • 辺津宮:市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
ご神徳

海上安全、豊漁、交通安全など
※市杵島姫神は、他に、知恵、財福、芸能など

例祭日

  • 春季大祭:4月1日~2日
  • 秋季大祭:10月1日~3日

 

拝観時間などの拝観情報や、住所、電話番号などの基本情報は、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
宗像大社・辺津宮の見どころと拝観情報「営業時間(拝観時間)・拝観料金・駐車場の場所など」※境内マップ付き
宗像大社・中津宮の拝観情報「営業時間(拝観時間)・拝観料金(割引料金)」と、アクセス(行き方)・見どころなど ※境内マップ付き

宗像大社(沖津宮・中津宮・辺津宮)の歴史

古墳時代

4世紀(300年代)後半
  • 倭(ヤマト王権)と百済(朝鮮半島)との交易が活発になり、沖ノ島の巨岩群の周辺で、航海の安全や交流の成就を祈る大規模な祭祀が行われるようになる。

 巨岩の上で始まった祭祀は、初めは岩と岩とが重なる隙間に奉献品を並べて祈祷をするスタイルでしたが、5世紀(400年代中頃)には、大石を石で四角く囲って祭壇を造るようになりました。
さらに5世紀後半になると、祭祀の会場は巨岩の上から屋根の庇のように突き出した巨岩の陰へと移りました。

沖ノ島の岩陰祭祀遺跡

飛鳥時代

御嶽祭祀遺跡
7世紀(600年代)後半
  • 沖ノ島で行われていた祭祀が、大島の御嶽山(御嶽山祭祀遺跡)や九州本土の宗像山(下高宮祭祀遺跡)でも営まれるようになる。

 この頃になると、岩陰で行われていた沖ノ島の祭祀は、半分は露天に出て行われるようになります。
やがて8世紀(700年代)に入ると、巨岩群から少し離れた平坦な露天で祭祀が行われるようになり、この形の祭祀は9世紀(800年代)末頃までの約200年間に渡って続きました。

奈良時代

8世紀(700年代)前半
  • この頃までに、沖津宮・中津宮(御嶽山祭祀遺跡)・辺津宮(下高宮祭祀遺跡)に宗像三女神が祀られる。

 それまで自然崇拝だった信仰に、宗像三女神という人格神への信仰も重なり、両者が併存しながら、後世の宗像地域の信仰の基盤となっていきました。(宗像三女神については後述)

平安時代

9世紀(800年代)
  • 豪族・宗像氏が神主として神社に奉仕することになる。
  • 日本と唐や新羅との間の公的な交流がなくなり、沖津宮・中津宮・辺津宮でそれまで行われていた古代祭祀も下火になる。

 遣唐使が廃止され、京の都では「国風文化」と呼ばれる文化が花開いた頃、宗像地域の古代からの祭祀は一旦の終わりを告げます。
しかし、沖ノ島はその後も「神宿る島」として崇拝され、古代祭祀遺跡はほぼ手付かずの状態で現代に受け継がれました。

12世紀(1100年代)
  • 平安時代末期にあたる12世紀頃までに、九州本土の下高宮祭祀遺跡がある丘陵の麓に、辺津宮の社殿が造営される。

室町時代~安土桃山時代

16世紀(1500年代)
  • 16世紀までに、大島の御嶽山祭祀遺跡がある御嶽山の麓に、中津宮の社殿が造営される。

 中津宮の社殿は御嶽山山頂と参道で結ばれ、一体となっています。

1578年(天正六年)
  • 前年に焼失した辺津宮本殿が、大宮司・宗像氏貞(うじさだ)により再建される。
1590年(天正十八年)
  • 辺津宮拝殿が筑前領主・小早川隆景により再建される。

 16世紀に再建された辺津宮の本殿と拝殿は現在まで残り、共に国の重要文化財に指定されています。

辺津宮の拝殿

江戸時代

沖津宮
17世紀(1600年代)半ば
  • この頃までに、沖ノ島の古代祭祀の祭場だった巨岩群の間に沖津宮の社殿が造営され、島全体が沖津宮の境内と定められる。
1675年(延宝三年)
  • 第三代福岡藩主・黒田光之(みつゆき)により、地域にある宗像大社の末社が辺津宮の境内に集められ、祀られる。

 江戸時代には、福岡藩主・黒田氏により、辺津宮の社殿の造営や修理が度々行われました。

18世紀(1700年代)半ば
  • この頃までに、大島の北岸に沖津宮遙拝所が設けられる。

 遙拝所は他にもいくつか存在したようで、例えば江戸時代には、九州本土の江口浜に沖津宮と中津宮の遙拝所があり、福岡藩主が辺津宮を参拝した後は、ここから沖津宮と中津宮を遙拝したと伝わっています。


スポンサードリンク -Sponsored Link-






明治時代

1907年(明治四十年)
  • 辺津宮の拝殿・本殿が重要文化財に指定される。

昭和時代

沖津宮遙拝所
1933年(昭和八年)
  • 沖津宮遙拝所の現在の建物が完成する。
戦後
  • 第二次世界大戦後、荒廃していた宗像神社が、宗像市出身の実業家・出光佐三(いでみつさぞう)の寄進によって整備される。
1963年(昭和三八年)
  • 宗像大社辺津宮で日本で初めての車用交通安全お守りがの授与が始まる。

戦後の復興に尽力した出光佐三

出光佐三は出光興産の創業者で、宗像大社の復興のために結成された「宗像神社復興期成会」(現・宗像大社復興期成会)での初代会長として中心的な役割を果たした人物です。
境内の整備だけでなく、神社史の編纂や古代祭祀遺跡の学術調査などについても尽力しました。
その功績が大きかったので、境内のどこかに名前を残させてほしいという申し出が神社側からあったものの、出光氏本人は「畏れ多いので」ということで断り続けたという話が伝わっています。

宗像大社のご祭神「宗像三女神」とは?

宗像三女神の名前の由来

宗像三女神(三神)は、海や航海の安全を司る海の神で、一般的には以下のような名称で呼ばれます。

  • 長女神:田心姫神たごりひめのかみ
  • 次女神:湍津姫神たぎつひめのかみ
  • 三女神:市杵島姫神いちきしまひめのかみ

日本の八百万の神々の中でも唯一の三姉妹の女神で、いずれも美人として知られています。

田心姫は「多紀理姫(たぎりひめ)」、湍津姫は「多岐都姫(たぎつひめ)」ともいい、これらは「潮流が速く激しい様子」を表す言葉です。

また、「市杵島」は、「神霊を斎(いつ)き祀る島」、つまり「神を祀り神に仕える島」という意味で、広島県・宮島の厳島神社の社名の由来になったとも言われています。

宗像三女神は、人々に恵みをもたらす一方で、危険な一面も持つ海の神秘的な力が神格化されたもので、神霊を鎮め、航海の安全や豊漁を祈願するために全国に祀られました。

宗像三女神を祀る神社は、全国に7000余社、あるいは8500社あるとも言われ、これは日本で5番目という多さです。

宗像大社は、これらの神社の総本社となっています。

宗像三女神の別称は「道主貴」

宗像三女神は、「道主貴(みちぬしのむち)」という別称を持っています。

「貴(むち)」という尊称は、最も高貴な神にのみ贈られるもので、「貴」が付く別称を持つのは、宗像三女神と、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち/天照大御神)、出雲大社の大己貴(おおなむち/大国主命)のみとなっています。

このことから、宗像大社が、伊勢神宮や出雲大社と並んで、古くから、皇室や人々から厚く信仰されていたことがわかります。

宗像三女神の誕生と降臨

沖ノ島

宗像三女神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が素戔嗚尊(すさのおのみこと)の「十挙の剣(とっかのつるぎ)」を3つに折って噛み砕き、それを吹き出した息の中から生まれました。

したがって、宗像三女神は、天照大御神(または素戔嗚尊)の御子神とされています。

『日本書紀』によると、その後、天照大御神の以下のような言葉により、宗像三女神が宗像地域に降り立ったとされています。

「汝三神 宜しく 道中に降居して 天孫を助け奉り 天孫に祭かれよ」
(いましみはしらのかみ よろしく みちのなかにくだりまして あめみまをたすけまつり あめみまにいつかれよ)

つまり、「朝鮮・中国へ至る海の道(道中)に降り立ち、歴代天皇家を助け、また天皇家に祀られて、皇室と国民の繁栄を祈りなさい」ということです。

宗像大社ではこの神勅を三女神が鎮座した根幹とし、沖津宮・中津宮・辺津宮それぞれの拝殿に、神勅を記した額を掲げています。

なお、天照大御神の神託で降臨したのは、天照大御神の孫神で皇室の祖先になったと言われる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と、この宗像三女神だけだと伝えられています。

宗像三女神が降臨した場所

宗像三女神が降臨した場所については諸説ありますが、現在、辺津宮の「高宮祭場」がある場所だったという説もあります。

その後は福津市の神輿(しんご)という場所にしばらく留まり、第7代孝霊天皇の時代に、現在宗像大社の沖津宮・中津宮・辺津宮がある3か所に鎮座されたと伝わっています。

宗像三女神が祀られるようになった理由

宗像大社がある北九州地方では、海が近く、漁業に従事する人も多かったことから、もともと海の神への信仰がありました。

その一地方の土着の神が、国内でトップクラスの権威を誇る宗像三女神となった背景には、4世紀(300年代)末頃に、宗像地域を介して、朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んになったことが挙げられます。

沖ノ島や大島が浮かぶ玄界灘は荒海で、航海には危険がつきものでした。

そのため、後の遣唐使を含む、朝鮮半島や中国大陸へ向かう朝廷の使者たちは、必ずこの地の海の神に航海の安全を祈願しました。

こうして、宗像地域の海の神は、時の政権のためにも航海安全のご神徳を発揮してさらに崇められるようになり、やがて今日のように、全国で信仰される有力な神としての地位を獲得したのです。

宗像地域の信仰の基礎を築いた豪族・宗像氏

宗像地域の古代祭祀は、航海術に長けた豪族・宗像氏が中心となって大陸の交流が行われる中で営まれました。

自然崇拝に宗像三女神への信仰を取り入れたのも、宗像氏だという説もあります。

5~6世紀(400~500年代)に築かれた宗像氏の墓である「新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群」は、宗像大社の三宮や沖津宮遙拝所と共に、世界遺産に登録されました。

古墳の多くは、玄界灘を見渡せる丘陵に築かれており、宗像氏と海との関わりの深さがうかがえます。

宗像三女神のご神徳は「交通安全」?

以上のように、宗像三女神のもともとのご神徳は海上(航海)の安全や豊漁ですが、「道主貴」の別称からもわかる通り、「」を司る神としても信仰されてきました。

現在では交通安全の神としても知られています。

今や全国の神社・寺で目にする自動車用の交通安全のお守りは、ここ、宗像大社から誕生しました。

また、辺津宮に祀られる市杵島姫神は、共に美人であり、水(海)の神であるという共通点がある「弁才天」と同一視される神です。

これは、「神は仏の仮の姿」だとする本地垂迹という考え方によるもので、市杵島姫神の本来の姿は弁才天だとされたのです。

弁才天が財福、知恵、芸能、美の神などとしても信仰されていることから、市杵島姫神への信仰にも、この影響が見られます。

このため、全国の宗像・厳島系の神社の中には、弁才天を祭神(本尊)とする神社も、多く存在しています。

スポンサードリンク -Sponsored Link-


    

当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。万が一、内容に誤りがございましたらお問い合わせにて承っております。また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。

関連コンテンツ