宗像大社・辺津宮「本殿」【重要文化財】

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宗像大社・辺津宮「本殿」【重要文化財】

創建年

不明

再建年

1578年(天正六年)

再建した人

宗像氏貞

建築様式(造り)

五間社流造

屋根の造り

こけら葺

ご祭神

市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)

重要文化財指定年月日

1907年(明治四十年)、5月27日




宗像大社・辺津宮「本殿」の歴史・由来

本殿は、全国7000か所以上とも言われる宗像三女神を祀る神社の総本社である宗像大社の、まさに中心であり、最も重要な場所です。

7世紀の後半頃までには、現在の辺津宮がある場所で露天祭祀が行われるようになっていましたが、社殿の造営時期ははっきりせず、遅くとも1119年(元永二年)までに、何らかの建物があったとされています。

その後、戦乱などの影響による火災で数度の焼失を経験しました。

現在の本殿は、1557年(弘治三年)の火災による焼失後、宗像大社の大宮司・宗像氏貞(むなかたうじさだ)によって、1578年(天正六年)に再建されたものです。

武士であり、戦国大名でもあった宗像氏貞

大宮司とは神職の長で、後継ぎのいない宗像氏貞が死んで家系が途絶えるまでは、700年近く、宗像氏が務めていました。

そんな大宮司家に代わり、江戸時代には福岡藩主だった黒田氏が代々修復の費用を捻出しました。

明治時代以降はおおよそ半世紀おきに、屋根の葺き替えや解体修理などが行われ、記録によると、再建から現在までの約440年の間に、なんと少なくとも40回の修理が実施されています。

現在の本殿は、ほぼ創建時の姿を留めていると考えられますが、1922年(大正十一年)からの全面解体修理の際に、建物を風雨から守る「霧囲(きりがこい)」という部分と、階段付きの「車寄(くるまよせ)」が撤去されています。

なお、中世の辺津宮には、「第一宮(ていいちぐう)」「第二宮(ていにぐう)」「第三宮(ていさんぐう)」という3つの社殿があったことがわかっています。

このうちの第一宮が、現在の本殿・拝殿です。

第二宮と第三宮は宗像三女神のうちの長女神・田心姫神(たごりひめのかみ)と次女神・湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る社殿で、現在は本殿の裏側に並んで建っています。

宗像大社・辺津宮「本殿」の建築様式(造り)・特徴

宗像大社・辺津宮の本殿は、「五間社流造」といいます。

「五間(ごけん)」とは本殿の横幅の大きさを指します。

五間というのは、正面に「柱と柱の間:間」が「5つ」ある建物のことを言います。

「流造(ながれづくり)」とは、伊勢神宮の社殿に代表される「神明造(しんめいづくり)」を進化させた形で、本を伏せたような斜面が前後にある「切妻屋根・平入り」の建物で、斜面が流れるような曲線を描き、後方よりも前方が長く造られて庇(ひさし)になっているのが特徴です。

ただし、辺津宮の本殿は、「流造」の中でも「両流造」と呼ばれ、前だけでなく、後ろ側にも屋根が伸びています。

本殿の前には拝殿があるので、正面から見ることはできませんが、横に回っていけば、屋根の曲線や長さをしっかりと確認することができます。

屋根は、多数の薄い木材を重ねながら葺く、日本伝統の「こけら葺」です。

桃山時代初期の建築の優美さがよく表れた建物なので、ぜひじっくりと見てみてください。

2013年(平成二十五年)の塗装の修復により、白い壁と朱塗りの部分のコントラストが、大変美しくよみがえっています。

宗像大社・辺津宮「本殿」のご祭神

辺津宮のご祭神は、「宗像三女神」の三女、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)で、海・道を司る神として、航海の安全、豊漁の他、交通安全などのご神徳があるとされています。

 

宗像大社のご祭神・宗像三女神について詳しくは、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

宗像大社(沖津宮・中津宮・辺津宮)の「歴史・由来」と、ご祭神・宗像三女神の「名前の由来・ご神徳(ご利益)」など

宗像大社・辺津宮「本殿」の場所

大鳥居をくぐって太鼓橋を渡り、参道をまっすぐ進むと、廻廊に囲まれた部分の入口となる神門があります。

神門をくぐった正面にあるのが拝殿で、その奥に本殿があります。

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