太宰府天満宮「延寿王院(山門)」

スポンサードリンク

太宰府天満宮「延寿王院(山門)」

読み方

  • えんじゅおういん(さんもん)
造営年(山門)

  • 1834年(天保五年)上棟
建築様式(造り)

  • 切妻造、四脚門

太宰府天満宮「延寿王院」の歴史・由来

延寿王院とは

太宰府天満宮は、平安時代後期から江戸時代にかけては、「安楽寺天満宮」というお寺でした。

そしてこの延寿王院は、安楽寺天満宮の留守別当、大鳥居氏の宿坊でした。

留守別当というのは、別当が京都にいる間、現地に留まり代理で別当の職に当たる役職のことです。

「延寿王院」は、1754年(宝暦四年)、桃園天皇から賜った名称です。

また、境内の入り口となる鳥居と向かい合うよう位置にあるため、太宰府天満宮を守護するための寺だったとも言われています。

延寿王院が入り口正面でにらみをきかせ、万が一邪悪なものが入ってきそうになったら追い払うことで、御本殿まで行かせないということですね。

江戸時代は尊王攘夷派の基地に!

1865年(慶応元年)2月から1867年(慶応三年)12月にかけての約3年間、延寿王院には「五卿」が滞在していました。

五卿とは5人の公卿、つまり太政大臣などの大臣や、大納言、中納言などの高位の官人のことで、ここでは

  • 三条実美(さんじょうさねとみ)
  • 三条西季知(さんじょうにしすえとも)
  • 東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)
  • 四条隆謌(しじょうたかうた)
  • 壬生基修(みぶもとおき)

のことを指します。

ちなみに、三条実美と三条西季知以外は厳密には公卿と呼ばれる地位ではありませんでしたが、一般的には5人をまとめて「五卿」と呼んでいます。

この五卿に会って倒幕、あるいは新しい日本作りについて相談するため、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊介(伊藤博文)ら長州藩士を始め、西郷隆盛、坂本龍馬など、多くの志士たちもまた、この延寿王院を訪れたといいます。


スポンサードリンク -Sponsored Link-






八月十八日の政変

京都にいるはずの公卿たちが遠く離れた筑前国の延寿王院にいたのには、ワケがあります。

五卿が延寿王院に滞在した3年間の前後の動きも含め、簡単にまとめると、以下のようになります。

1863年(文久三年)

8月18日、会津藩や薩摩藩など、朝廷の権威と幕藩体制を組み合わせて新たな体制を構築し、緩やかな改革を実現しようとしていた「公武合体派」の武士たちが中心となり、急進的な尊王攘夷派の集団だった長州藩と、その政治工作に加担していた公卿たちを京都から追い出す事件が起こりました。

これが、五卿が延寿王院に滞在するきっかけとなった八月十八日の政変です。

この時都落ちした公卿は7人で、「七卿落ち」と呼ばれています。

7人は、急進的な思想や計画のせいで、朝廷における各役職をクビになったということです。

1865年(慶応元年)

その後、病死したり別行動をとったりした2人を除いた5人が、長州を経て、紆余曲折がありながらも筑前藩預かりとなり、5人一緒に太宰府に移ることになったのでした。

「五卿西遷(せいせん)」とも呼ばれる出来事です。

延寿王院では、別当の職を子に譲って隠居の身だった大鳥居信全が、5人を出迎えました。

1866年(慶応二年)

この年、「五卿を江戸に送るか九州の他の藩と分担して引き取らせよ」という幕府からの命令で、役人小林甚六郎が太宰府にやってきました。

ただでさえ官位をはく奪され、幽閉されたも同然の状況なのに、敵対する幕府の本拠地である江戸に送られたり、心の支えだった仲間と離れ離れにされたりしてはたまりません。

5人とその随伴者たちは、命を懸けて戦い抵抗する覚悟も決めていました。

そんな中、6月には幕府軍が長州藩を攻め「第二次征長戦争」が始まりましたが、幕府軍は敗戦を重ねます。

幕府軍の敗北が濃厚になると、五卿を江戸に送る計画は中止され、太宰府に派遣されていた小林の任務は解消されました。

更に8月、将軍徳川家茂が亡くなったのを機に、幕府の征長軍も撤退しました。

情勢が、長州藩を始めとする尊王攘夷派、倒幕派に傾いたのです。

1867年(慶応三年)

幕府を倒すチャンスと見た5人は、京に戻る許しが出たら倒幕の戦いに加わろうと準備を加速させ、延寿王院が、さながら戦争準備基地のようになります。

そして12月、5人や京都に留まりながらも処罰の対象となっていた公卿たちはついに赦免され、都を追われて久しかった5人にも官位が戻されて、京へ帰還する許可が出ました。

しかし彼らが準備した武器を持ち戦争に加わる必要はありませんでした。

一夜にして幕府を廃止し新政府を樹立する「王政復古」が宣言され、江戸幕府が終わったのです。

12月27日、5人は帰京し、明治天皇に拝謁しました。

一度は都落ちを経験した「五卿」でしたが、明治政府では要職に就きました。

延寿王院の現在

安楽寺は明治時代の神仏分離の流れの中で廃寺になってしまいましたが、神社としての天満宮は残り、延寿王院も生き延びました。

現在は、太宰府天満宮の宮司を代々務めている西高辻家(にしたかつじけ)の邸宅となっており、中に入ることはできません。

ただ、立派な山門と、庭園の風景は見ることができます。

山門は、2002年(平成十四年) の菅原道真神忌1100年大祭の際に補修されました。

太宰府天満宮「延寿王院」の建築様式(造り)・特徴・見どころ

山門

山門は切妻造の平入りで、正面からは何もないシンプルな門に見えますが、側面から見れば、丸瓦の梅紋や技巧的で美しい妻飾りが目に入ります。


延寿王院の山門の左右から邸宅の敷地を囲うのは、土をつき固めて作られた築地塀(ついじべい)と呼ばれる塀です。

古来、皇族や貴族、上級官人の邸宅、寺院によく見られる塀で、白い横線を入れたタイプのものがは特に筋塀と呼ばれます。

この白い線が5本あるものが、最高位の寺を表していました。

延寿王院の筋塀にも、白い線が5本あるので、チェックしてみてくださいね。

記念碑

門から見える「五卿遺跡」と書かれた大きな石碑は、五卿の西遷の70周年を記念して設置されました。

また、門前には「七卿西竄(せいざん)図」あるいは「七卿落ち図」と呼ばれるレリーフが刻まれた記念碑もあります。

西竄とは、西国に逃れたという意味で、7人の公卿が京を追われ、武士たちに付き添われて歩く様子が描かれています。

太宰府天満宮「延寿王院」の場所

延寿王院は、太宰府天満宮の参道の突き当りに位置します。

鳥居をくぐり、案内所を右手に見ながらまっすぐ進んだところにあります。

おわりに・・

すぐ手前にある御神牛像が人気なのであまり目立たないかもしれませんが、延寿王院は、幕末から明治維新に繋がる歴史のロマンを感じられる場所です。

ぜひ一時足を止め、門構えや庭園を見てみてくださいね。

スポンサードリンク -Sponsored Link-


    

当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。万が一、内容に誤りがございましたらお問い合わせにて承っております。また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。

関連コンテンツ