こちらのページでは、太宰府天満宮の歴史と、ご祭神「菅原道真(天神さま)」の由来やご神徳について、詳しくご紹介します!!
天満宮とは
天満宮とは、菅原道真公を祭神とする神社です。
天満神社、天神社、菅原神社などと称するものも含めて、全国に1万社以上あるとされ、お稲荷さま、八幡さま、お伊勢さま(神明さま)に次いで、分社の数では第4位の多さとなっています。
これらの天満宮の総本宮(総本社)が、京都の北野天満宮と、福岡の太宰府天満宮です。
社号および「天神さま」という呼び名は、菅原道真公が死後に贈られた「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神号に由来しています。
太宰府天満宮の基本情報(創建年・ご祭神など)
読み方
だざいふてんまんぐう
創建年
919年(延喜十九年)
ご祭神
菅原道真(天満大自在天神、天神さま)
ご神徳(ご利益)
学問(詩歌・芸能・文筆)上達、受験合格、至誠、厄除けなど
例祭日
9月25日
※拝観時間などの拝観情報や、住所、電話番号などの基本情報は、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
太宰府天満宮の拝観情報「拝観時間(開門時刻・閉門時刻)・拝観料金(割引料金)・駐車場の場所・境内案内図・拝観ルート(回り方)など」
太宰府天満宮の歴史年表
903年(延喜三年)
- 菅原道真公が59歳で死去。
遺言によって遺体は京ではなく大宰府に葬られることになったため、門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)一行が、牛車で遺体を安楽寺へ運んでいる途中、牛が安楽寺の門前で動かなくなりました。
そこで、「ここに留まりたいという道真公のご遺志だ」と考えた門弟たちが、その地を墓所にすることを決めたということです。
天満宮の牛は「神の使い」
全国の天満宮・天満神社では、牛は「神の使い」として尊ばれていますが、その理由として、上記のようなエピソードと共に、以下のような事実・伝承があります。
- 道真公が丑年生まれである
- 道真公が大宰府に左遷される際に牛が泣いて見送った
- 道真公自身が牛をかわいがった
905年(延喜五年)
- 味酒安行が菅原道真公の墓所に祀廟(しびょう)を建てる。
919年(延喜十九年)
- 醍醐天皇の勅命により、左大臣藤原仲平(時平の弟)が自ら大宰府に赴き、廟のあった場所に社殿を建立する。
道真公の死後、京の都では疫病が流行り、道真公を大宰府に左遷した藤原時平が急逝するなどしたことが「道真の祟り」と恐れられ、鎮魂のため、改めて神社を建立して道真を祀ることになりました。
太宰府天満宮では、この年を創建年としています。
923年(延喜二十三年/延長元年)
- 皇太子保明親王が21歳で死去したのを機に、祟りを恐れた朝廷により道真公の官職が大宰員外師から右大臣に復され、正二位の位が追贈される。
※追贈(ついぞう)とは:本人の死後に官位や称号が贈られること。
930年(延長八年)
- 6月、清涼殿で落雷事件が起こり、死傷者が出る。(後述)
この落雷事件を目撃したショックで醍醐天皇は体調を崩し、9月には譲位して7日後に亡くなりました。
翌年には、道真公を側近として登用していながら左遷を阻止できなかった宇多法皇も死去し、依然続く「道真の祟り」への恐れがますます大きくなっていきました。
986年(寛和二年)
- 道真公の曾孫菅原輔正(すけまさ)により現在まで続く「鬼すべ神事」が始められる。
※「鬼すべ神事」は、「鷽替え神事」と共に、毎年1月7日に開催されます。
太宰府天満宮の「鬼すべ神事」と「鷽替え神事」については、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
噂の奇祭!?太宰府天満宮の「鷽替え神事」と「鬼すべ神事」歴史・日程・混雑状況・混雑回避策など
987年(永延元年)
- 一条天皇より、道真公に「北野天満天神」の称号が贈られる。
990年(正暦元年)頃
- 本来は天皇や他の皇族を祀る神社につけられる「天満宮」の社号を併用し、「安楽寺天満宮」を名乗るようになる。
993年(正暦四年)
- 5月に正一位左大臣、10月に太政大臣の位が追贈される。
朝廷は長年道真公の名誉挽回に努めてきましたが、死後90年経ったこの年、ついに生前の右大臣を超える左大臣、そして太政大臣の位が与えられました。
1579年(天正七年)
- 本殿や回廊を焼失するが、戦乱の混乱の中でしばらく放置される。
太宰府天満宮の本殿はこれ以前にも何度か炎上しており、修理・再建が行われてきましたが、1579年の焼失から立ち直るには、およそ10年の歳月が必要でした。
1587年(天正十五年)
- 領主として小早川隆景が赴任。その後、隆景の検知により、荘園所領の多くを手放すことになる。
1591年(天正十九年)
- 領主・小早川隆景により、戦国期の動乱で荒廃していた境内が整えられ、本殿が再建される。
小早川隆景は5年を費やして本殿を再建しました。
現在の本殿はこの時再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
1592年(文禄元年)
- この年に開始された豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に出陣する小早川隆景のために連歌会を催す。
領主・小早川隆景と太宰府天満宮のつながりは強く、隆景の釜山滞在中には陣中見舞いも送られています。
慶長年間(1596年~1615年)
- 石田三成により、楼門が再建される。
前述の小早川隆景による再興事業がさきがけとなり、その後も石田三成、黒田如水、黒田長政など、名だたる武将たちが太宰府天満宮に寄進を行いました。
石田三成が再建した楼門は、残念ながら明治時代の火災で焼失し、現在見られるのは1914年(大正三年)に再建されたものとなっています。
1871年(明治四年)
- 明治時代に入り、皇族を祀る神社以外が「宮」という社号を名乗れなくなったため、社号を「太宰府神社」に変更する。
1907年(明治四十年)
- 本殿と志賀社が国の重要文化財に指定される。
1947年(昭和二十二年)
- 社号を「太宰府天満宮」とする。
天神さまとは?
全国の天満宮のご祭神菅原道真公は、天神さまとして親しまれています。
なぜ、学者であり政治家であった道真公が神として祀られ、1000年以上に渡って信仰を集めてきたのでしょうか。
御霊信仰と「道真の祟り」
平安時代、この世に恨みを残し非業の死を遂げた人間は、怨霊となって災いをもたらすと考えられていました。
このように現世に祟りをなす霊を、御霊(ごりょう)といいます。
今は老若男女に親しまれる存在の天神さまも、もともとはこの御霊信仰の影響を受けて祀られるようになったのです。
菅原道真公はこんな人
菅原道真公が生まれた菅原家は、代々宮廷の学者を務める家系でした。
幼いころから大変優秀だった道真公は、宇多天皇、醍醐天皇に重用され、学者の身分でありながらついには右大臣の地位につくという、異例の出世を果たしました。
しかしそれが反感を招き、左大臣藤原時平がでっち上げた告げ口によって、都から遠く離れた北九州の大宰府に左遷され、2年後に亡くなりました。
都を震撼させた「道真の祟り」
道真公亡き後、時平が病死したり、天皇と貴族たちが集っていた宮廷の清涼殿(せいりょうでん)に雷が落ちたりして、道真公の左遷に関わった人々が多く死んでしまいました。
これらの災い、特に清涼殿への落雷事件が「道真の祟り」とされたことから、道真の怨霊は雷神と結び付けられ、「天神さま」として恐れ崇められるようになりました。
そこで、道真公の鎮魂のために天皇の命によって建立されたのが、現在の太宰府天満宮でした。
「天神信仰」平安時代から室町時代まで
死者の怨念を鎮めるために建てられた神社と聞くと、怖いと感じる方もいるでしょう。
でも、太宰府天満宮は、鎮魂の神社では終わりませんでした。
本人の死後100年程度は、天変地異があると「道真の祟り」と噂され恐れられましたが、それも次第におさまり、天神さまは、徐々に人々にとって身近な存在になっていきました。
道真公が優れた学者だったため、当初から学問の神としても信仰されていたようですが、
平安時代から鎌倉時代にかけては、誠実に職務にあたっていながら政争に敗れて左遷された道真公を偲んでか、慈悲の神、至誠(しせい)の神としても信仰されていたようです。
また、「書の三聖」の1人と称えられるほど達筆だったということで、書の神ともされていました。
道真公は漢詩も得意としていたので、室町時代には、当時の重要な教養の1つだった和歌や連歌の神としても信仰を集めました。
「天神信仰」江戸時代以降
学問の神としての天神信仰が一般の人々まで浸透した背景には、江戸時代の寺子屋の広まりがあります。
各地の寺子屋には天神さまの尊像が掲げられ、学問・手習いの神、あるいは子供の守り神として親しまれました。
毎月25日の縁日には近くの天神さまを祀る神社にお参りする習慣ができ、それが今日の合格祈願参りに繋がっていったとも言われています。
おわりに・・
いかがでしたか?
学力向上、受験合格、そして子供たちの守り神として広く親しまれている天神さまを祀る神社は、国内に10000社以上あります!
その総本社である太宰府天満宮に、一度はお参りしてみませんか?